青のピアスのおっちゃん

 先日、あの実家からやっと東京に帰ってくることができた。その間にあった諸々の出来事はここでは書かない(書くと何人かに吐いている嘘がバレてしまうので)し、両親が実家でまた喧嘩をしていることなど、もはや東京に帰ってきた私には何の関係もないことだ。そんなことよりも今の自分にとって大事なのは、一番よく利用しているスーパーのレジのおっちゃんにまだ会えていないことである。もし、自分が東京にいなかった4ヶ月の間に彼が辞めていたのだとしたら、相当なショックを受けるだろう。それに、今後あのスーパーに行くたびに「もう、あの青のピアスのイカしたおっちゃんに会えないのだ」と思うとなると、今からすでに辛くなってしまっている。こんなことを思うのは、自分がそのおっちゃんに一方的な想いをストーカーのように寄せているからではない。寮生御用達のこのスーパーに買い物に来た時、青のピアスを「素敵ですね」と自分が褒めたところから、レジで会えば互いに話すくらいの仲にはなっている。よく夕方〜夜にシフトを入れているスキンヘッドのおっちゃんは独り身なのか、余程暇なのかは知らないが、年齢は50代後半だろうと見ている。しかし、昔はバイクにでも乗っていたのだろうと想像させるような少し日焼け気味のヤンチャな顔と快活な喋り口調から、俗にイメージされる50代にしては随分と若いと思っていた。(とは言え、彼の本当の年齢は知らないのでなんとも言えないのだが)他の従業員さんやいろんなお客さんと気さくに喋るその人柄に自分は勝手に好感を抱いているのだが、それ以上にそのおっちゃんに見出していたのは、世界の安定であった。

 世界の安定、それは現象学によれば「過去こうだった、今日はこうである、だから未来もこうだろう」という連続性によって作られるものであり、私たちがそれぞれに持ち、そしてある程度は他者と相互的に共有している普遍的な基盤(普段当たり前に生きている世界を構成してくれる地盤)のことを指す。例えば、何故、自分が西武池袋線ユーザーとして通学することが可能になっているかと言えば「過去電車が使えた」という事実があり、そして普通に「今日も使えた」ので、「明日もきっと使えるだろう」と予想するからである。そして、それが多くの他者と共有された世界に生きているから、安心して過ごせているのである。そうじゃなければ毎朝毎朝「今日は学校に行けるのだろうか」と不安になってしまうし、そんな不安定な世界では安心して生きられない。だから、比喩的な意味でもそうでなくても内戦地区のような場所に生きる人は「昨日は大丈夫だったが、今日は爆弾が落ちてくるかもしれない」「今日は親にぶたれなかったが、明日はどうなるか分からない」という不安が当たり前となって積み重なることで、それが彼・彼女らにとっての普遍的な基盤となってしまうのである。

 変化が激しく、人の移動速度が異常に早い(連続性がなく、特定の他者と世界を共有しにくい)東京に来て、自分は長い間住んでいるところに対する愛着や、安心を持てず、普遍的な基盤を築くことができないでいた。しかし、そのおっちゃんは「そこに行けば、大抵いつも会える」だから「過去会えた、今日会えた、だから明日も会えるだろう」という世界の変わらなさ、安定さを2年半に渡って体現してくださる身近で、相互的なやりとりができる他者として、自分にとてつもない安心とレシートをこの手のひらにずっとくれていた。自分が卒業して、退寮する時には何か一言そのおっちゃんにお礼でも言おうと考えているくらいである。(多分「あ〜、そうですか〜。それはよかったですね〜w」と笑われながらも、若干引かれるだろう)

 こういうことを書くと自分はすごくウェットで女々しい感性を持っていると改めて思うし、見知った顔に定期的に会えることに安心するあたりやっぱり田舎者なのだと思う。まあ、でも大なり小なりみんなそういうのはあるかもしれないから今日は少し書いてみた。明日の夜にはまた買い物に行こうと思っているので、レジで会えることを祈っている。まあ、それで会えなかったらそれまでなのだろう。寂しいけれど。スーパーに通って2年半になるが、未だにお互いの名前も知らないし、今後知ることもない。そして、こっちにとって彼はブログに書くほどの人ではあるが、向こうにとっては数多いるお客の一人であることは間違いないし、別にそれでいい。恋愛や友情に限らず、全ての人との関係なんて全部が全部片想いなのだから。例え双方向であっても、二人がそれぞれに互いに片想いしてるだけだろうし、それすらもスクランブル交差点ではごちゃ混ぜになってしまう。ああ、もはや安心さえ覚えるこの寂しさ、これが東京、いや、移り行く世の中というものなのだろう。断じて、こんなことでセンチメンタルになったりはしないし、このままおめおめと11月に負けるわけにもいかない。