服を捨てたい〜絵を描くことを通じてできた、現象学的考察〜
友人と夕食を食べ、そのままヒトカラに行きたい欲求と職場の後輩にだる絡みするのを我慢して、無事22時半に帰宅した。真夜中から再び大掃除を再開して、服を捨てるためにビニール袋に入れた。取り出しては戻し、仕分けてみたり、枚数を数えたりしてみた。先ほどの後輩にもちょっと相談したりもした。
服は結局、10着ほど捨てることになったがまだ家に置いてある。まだ捨てていないのは洋服をハンカチくらいの大きさに切りボロ布にして、絵を描くときに使おうと思っているからである。
先週、上京したときに持ってきた画材を約8年ぶりに使った。イーゼル、という木の棒や板が組み合わさったものに、キャンバスという布を木でできた枠に貼っている、いわば油絵を描くための画用紙(画用布?)を立てかけ、パレットに油絵具を出して筆で絵を描く。自分が10歳の頃から18までしていたことを、8年越しにもう一度したのだ。もう何が何だか分からない。書き始めるまでの準備は流石に体が覚えていたけれど、とにかく絵の具の蓋が開かない。油絵具はしっかり蓋を閉めてはいけないし、8年前の私もそんなことはしなかった。固く閉めると油が蓋に固まって開かなくなるから、だったと思う。けれど、普通に8年も開閉しなかったら、蓋と絵の具の隙間に垂れた油が固まって、開かなくなるに決まってる。インディゴ、ペルシャンブルー、コバルト、ビリジャン・ヒュー、バーミリオン、懐かしい絵の具たちの蓋を一生懸命開けてたら、右手の人差し指に水脹れができた。深夜2時に最悪の気分になった。
自分はパレットの上に出された色をとりあえずヘラで混ぜて、青系の色をいくつか作った。本当は黒い炭、そうだ、木炭だ(ネットで調べた)で写真や実際の物を見ながらデッサンをして、フキサチーフ?をスプレーして炭を固めて、それから絵の具を載せていくのだけど、フキサチーフは家にないし、特に今描きたいものなんてない。というか、自分はただ、この画材がまだ使える状態なのか試したかっただけなので、描きたいものも、描く意欲もそんなにない。何もないけど、あたりに油絵具の匂いが立ち込めてきた。懐かしさでいっぱいだった。そして、それは嫌なものではなかった。
家の近くの絵画教室、小学校の同級生のおばあちゃんがしていた絵画教室に水曜日、通っていた。4歳の頃から6年水彩を、10からは油絵を描いていた。その同級生と今日会った友人、その同級生と、私の3人は2週間に1回、水曜日、それぞれ中学からは違う学校に通ったが、同じ教室で14年ずっと描いていた。私たちの弟も、他の小学生たちも一緒に習っていた。
一番絵がうまかったのはその同級生で、絵の賞をいくつも取っていたし、見たものを本当にそのまま描いていた。彼女の絵はすばらしくうまかったし、狂いのない正確なデッサンの上に、優しい色合いで丁寧に絵の具を置いていたが、当の本人は音楽を聴きながら淡々と描いていた。友人は油絵になってから山の絵をよく題材にして、絵は彼女の魅力をそのまま写したように、着飾らないでありのままに、力強く描いていた。彼女はよく話し、よく笑い、よく悩み、よく見て、素直に描いていた。
一番下手だったのはあたしだったけど、そして自画自賛かもしれないけれど、多分絵を一番描きたがっていたのもあたしだったと思う。友人には水泳という、言わば本気で命をかける本業があり、絵を描いているときは普通に楽しそうだった。つまり、絵を描くことで苦しんでいるようには見えなかったし、勉強と部活に対して本当にひたむきに、素直に努力を重ねていたので、その点でかなり苦しんでいたように見えたし、実際にそうだったが、今は悩みながらも仕事と恋愛に生きていて、充実していそうだった。同級生には、恐らく、学生生活というものがあった。つまり、学校という彼女にとっての苦しみの中で、うまく生きることについてきっと考えていた、と思う。あたしはずっと学校という場所では、クラスの秩序の外で生きていたので、正直、彼女の苦しみが一体何なのか、理解できていなかったと反省しているが、それでも彼女は養護教諭になるという一見矛盾した夢、いや、学校での様々な苦しみがあるからこそ、それを受け止めてあげられるような先生になるという至極真っ当な夢を叶えたそうなので、今、どこで、何をしているのかは分からないが、幸せだといいなと思っている。
話を自分に戻すと、絵を描いていて苦しんでいたのは、ひょっとしたらあたしだけだったのではないのか。2人と比べて技術が劣ることをいつも感じていたし、描きたいものがうまく描けなくて憂鬱だったときもあった。基本的に何をどう描くかは自由だったが、それでも絵画教室なので、こちらは生徒として絵を習うというわけなので、絵を直されたり、指摘されることがもちろんあるのだが、その度に、それは先生として当たり前のことをしているだけなのに、こちらは否定されたような、自分の絵を邪魔されたような気持ちになるのだった。そう思っているのは私だけだったのか、彼女たちに聞いたことはないが、とにかく自分は生徒という立場でありながらも、恥ずかしいくらいに、自分の絵の稚拙さを、先生によって直接筆で修正されることを本当に嫌に思っていた。頭ではそれが必要な指導だとわかっていたし、絵を上達させるために添削してくれていたのだからありがたいことだと思わなければならないことも同時に知っていたが、それでも自分は絵を、自分の絵を描きたがっていたので、言葉で言われる分にはまだしも、先生が私の絵に書き足したり、消したりすることを本当に苦痛に思っていた。本当に愚かなことだと思っていたから、誰にも言わなかったけれども、先生は多分それを知っていたし、「これでは私の絵になってしまうね、よくないね」とすぐにいつもやめてくれていたように思う、私のときは特に。特に指導されることが多かったのも私だったが、私の絵を、2人と比べないまま好きでいてくれたのも先生だった。「描きたいという気持ちがよく伝わってくる」「絵がまるで動き出しそうね」といつも描く度に褒めてくれた先生だった。私は絵を描くことが辛く、そして好きだった。色々な絵を描き、満足できる絵を描けたのは8年のうちで3枚ほどしかなかったが、それでも本当に絵を描くことが好きだったんだな、とブログを書きながら改めて思った。涙が出てきた。現在のブログを書くという行為、何かを表現するときの孤独と苦痛と喜びを幼少の頃より教えてくれた人の1人は、間違いなく先生だった。
私たちが高校を卒業するとき、先生は絵画教室を畳んだ。私は最後に自分が使わせてもらっていたイーゼルを先生からもらった。それから1年浪人し、上京するときに自分が持っていた油絵具と一緒にイーゼルを持っていった。キャンバスは東京で新しく買ったものだった。8年越しに、とにかくただ青をいくつかキャンバスに描き、あーでもない、こーでもないと言いながら、キャンバスの布の白い部分がなくなるように、とりあえず青で埋めた。青に、黄色に、赤に、白を大量に混ぜながら、色の違いや筆の流れを楽しみながら描いていて思い出したそれらの過去は、自分の8年に関係しない過去だった。それがすごく新鮮だった。
この6年、つまり上京してから婚約者に別れを告げてしまうまでの期間を、自分は今も精算できないまま、この2年の間、嫌になるほどよく思い出して生きていた。もちろん全てが後悔や挫折、絶望や苦しみだけではないのだけれど、思い出す記憶のほとんどが辛かった。幸せなことを思い出すときは、もう今はそのような状態でないこと、そして今後もそうなれないであろうことを決めつけ、絶望し、悲嘆し、夢の中で起きた幸せに対してすら「こんなに幸せなんて、まるで夢みたいだね」と嘲笑していた。辛かったことを思い出すときは、何度でも新鮮に蘇るその苦しみの中で会うことのできる婚約者や、もう二度と会えないであろう友人を想い、悲しさを噛み締めてひたすら泣いた。味がしなくなっても、吐き捨てることのできないガムがずっと、ずっと体の中にあった。消化されない、けれど排泄できない。思い出すことをやめたかったが、思い出さないでは生きられなかった。この2年の現実世界で起こった大変なことも、喜ぶべきことも、全て、自分の過去を上回るものではなかったので、現実の苦しみや困難もあるにはあったが、どれも自分の心を壊すに至らない些細なことでしかなかったし、そのように感じていたことが、きっと現実を真剣に生きてる人の何人かを傷つけてきたとも思っている。現実の喜びについては、喜びを感じるその瞬間に、忘れている過去というものをふと思い出して、罪悪感に浸っていた。とにかく、この2年、なんとか不幸でいたがっていたように思うし、不幸であるべきだとまだ思っているし、夢を見るのが嫌で、朝日を疎んだ。
けれど、絵を描いた。無論まだ完成していないが、絵を描くことができた。過去、絵を描いたとき、私はまだ高校生だったので、大学に入ってから今に至るまでの様々な出来事を経験していなかった。高校生のころの私は私でそれなりに苦労をしていたし、悩んでいたこともあったし、そのときだって別に手放しで幸せだったわけではないけれど、その頃の私も絵を描いていた。今、自分が絵を描いてみて思い出した過去は、高校以前の私に関することであり、この6年、ないし8年に関することではなかった。完全にその6年、ないし8年については思い出さないことができたのだ。そこには絵を描くことに没頭できたから、という理由もあると思うが、もっと正確に頑張って言葉を探すなら、絵を描くという行為は、自分という現在の視点から見た近い過去とは一切関係せず、鳥取で過ごした私の過去とのみ結びついていたのだった。この8年、絵を必要としなかったわけではない。美術館に行ったり、簡単に鉛筆で落書き程度の絵を描いたりしたことはあったけれど、油絵を描くこと、つまり真剣に何か描きたいものを描こうとして、悩んだり、考えたり、傷ついたり、喜んだりすることはしなかった。今回、絵を描いた理由も、何かを表現したくてというより、8年も使わなかった画材をこの機にいい加減、捨てるかどうか決めるために、とりあえず使ってみたという不純な理由だった。
けれど、絵を描きながら思い出した高校以前の私のことは、今の自分にとって苦痛ではなかった。自分は過去の私を否定も肯定もしなかったし、後付けのようにその過去に特別に何か見出して、現在の自分を考え直したり、未来を憂いたりしなかった。過去が過去の私として完成されていて、(絵を描くことで苦しんでいたが同時に満足いく絵を描けて喜んでもいた私、というものが現在絵を描いていない自分に対して何か直接、影響を与えてこない)過去を思い出しても、辛くならなかったのだった。ただ単純に高校以前については懐かしくて、「ああ、そんなこともあったね、今まで忘れていたけど」と微笑むことができたのだった。
思うにこれは、この2年の間に、18から24に起きた過去の出来事をあまりに何度も何度も、今の自分の視点から歪曲させながら思い返したせいで、過去、というものが曖昧になっていて、ただの過去というものに後悔し、苦しみ、引き摺り回され、打ちのめされ、苦しめられ、現在というものを生きられなくなり、結果、未来というものをうまく描くことができていなかったのだ。
ただ、絵を描くという行為の中で思い出した過去、つまり18以前の私は、現在の私からあまりに遠かった。そして、この8年思い出したことがほぼなかった、クリアなフラットなままの過去だった。これは、すごいことだった。というもの、この2年の間、思い出す過去はほとんどがこの6年間に関することで、18以前の私について思い出すときは、決まって両親に関することだったからだ。(詳細は省くが、この2年、両親と絶縁を悩んでいたし、今も悩んでいるので)
変な話だが、自分は絵を描くまで、私だった、18以前の過去があることを忘れていた。あれだけ過去を思い出しておきながら、それは私の全てではなく、私の一部に過ぎなかった。18以前の私が正解で、この8年が間違っていたというわけではないが、少なくとも私という人間は18歳まで絵を描いて生きてきて、8年絵を描かないで生きていたが、絵を描いても描かなくても生きていたし、どちらもが揺るぎない私であった。この8年の苦しみこそが私で、逃れられない過去だとさえ思っていたが、それ以前の18年の苦しみや喜び、いや物心つく前の期間を引くならもっと短いだろうが、それ以前の私も悩みながらも後悔しながらも、そういえばちゃんと生きていたような気がする。
なんということだろうか、私は、今、それでも絵を描くことができている。あれだけ苦しんだあとであってもそれをなかったことにして、この8年を思い出さないで、18歳の頃の私を思い出しながら微笑み、絵を描いていた。正直、絵はまだ途中で、この先どう描いていいかわからないし、今こそ先生に描き方を教えてほしいとさえ思う。でも今先生はここにいない。もう生徒ではない私は、何をどう描くか、いつ描くか、いつまでに描くのか、自分で決めなければならない。不出来でも、不恰好でも、自分で決めていかなければならない。生徒だったときに望んだ自分で自分だけの絵を描くことのできる自由とは、なんて不確かで、不安で、朧で、歪で、美しくないのだろう。困り果ててしまった。しかし、絵を描く中で思い出した絵の具の感覚や色の混ざり方や匂いは、やはり覚えてしまっている。どうしても絵を描いていた私、と、今のこの私は地続きでしかないが、この8年を経験しまっているので、もう別の人間ではある。過去だった、過去は分断されており、顕在化してこなかった。
過去が干渉してこないので、私はそれからすぐにというわけにはいかなかったが、自分が自由であったことに気づいた。怖かった。望んだ自由ではなく、気付かされてしまった事実だったので。ただ、不幸でいるべき理由は現実にはになかったので、ようやく重い腰を上げて、幸せになろうとすることでも考えてみようという気になった。幸せとは何か、したいことは何かを新たに考えなくてはいけなかった。
服を捨てるために、ボロ布を作る。ボロ布を作るために服を捨てる?なんだか、どっちも言えそうだった。けれど、自分は服を捨て、きっと新しい服をまたいつか買う。青一面のキャンバスにこれから描く絵も決まっていないけど、何かしらまた描きたくなると思う。18以前の私に描くことができたので、18以前の私も服を捨て、そして買うことができたので、18以降の私も絵を描き、服を捨てることができると確信することができた。
そして、この文章は描きながら、ものすごく、現象学のことを考えさせられた。18以降24以前の自分が、現象学を学ばなければ、教えてもらえなければ書けなかった、整理することができなかった。詳しくはまた書くが、今やっと、18以降24以前の自分の一つの部分が動き出し、肯定でき、考えることができてよかったと思えた。
服を捨てたい
来る引越しに向けて片付けをしている。ただ、自分の持ち物については本が段ボール10箱、服4箱、画材、ちゃんとしたビデオ、ミニチェキカメラ、竹刀と木刀、ノリで買ったクマのぬいぐるみ、裏紙(速記用)、鞄、鏡くらいのもので、写真とか手紙とか細々したものはあるけれど、とにかく減らせるとしたら本と服だと思っている。先週要らない本を3箱分詰めて、ブックオフに売ることにした。集荷は今日の15時〜18時にお願いしてあるので、もうそろそろ来るだろう。
要らない本と言っても、大半が同じくブックオフで買ったただ面白いだけの漫画、大学図書館で「良かったら持っていってください」コーナーに置かれていた本、引っ越しでいらなくなったために友人から譲り受けた本たちなので、本に関しては意外に捨てやすかった。思い入れがない本、自分の手で買った本ではないものについては捨てられた、つまり、残りの7箱に相当する本、300冊くらいだろうか。これらは、この先どれくらい読むのかわからないが、とりあえず捨てられなかったのである。捨てたいという気持ちも湧かないので、もうこれ以上は捨てなくていいと思っているし、意外に捨てられて良かったな、とさえ思っている。
さて、問題は服だ。まだ数えてないし、服の数え方もわからないが(下着や靴下も含めるのか、スーツや喪服も数えていいのか)ざっと50〜70くらいあるのではないか?ネットで見る限り、一人暮らしにしては、決して多いわけではないが、普通に後先考えないでいいなら全部捨ててしまいたいと思う。何故か。荷物が多いと引越しのとき困るから、服がいっぱいあるとこれからも場所を取り続けるから、いや、服に関する思い出を捨てたいから、というのが20分ほど考えてわかったことである。
思い出と服の結びつきは強いのではないかと気づいたのも、そのときだった。試しに持っている服を羅列したが、服の名前にいつも副題がついている。
「花柄のシャツ〜大好きだった元婚約者に買ってもらった3万もするやつ〜」
「キメたいときに着る紺色のシャツ〜関係者の先輩のイメージを添えて〜」
「冬は二日に一回着ている灰色パーカー〜大学のときの冬、死にたがりからもらい、自分は代わりに自分の父親からもらい、当時使っていたドライヤーをあげた物々交換の思い出付き〜」
「イケてると思い込んでいるベージュのアウター〜友人のWに似合うと思って買ったが、渡すには思ったよりサイズが小さく、自分で結果的に着ている、いかにも女性らしい服。実は心の中では「女装用のオシャレ着」と呼んでいるやつ〜」
実際によく着るものから、もう着ることのない服まで、数多の思い出があるため、捨てられないのである。というか、むしろそういった数多の思い出たちを捨てたいという気持ちの表れが服を捨ててしまいたいという行動に現れ、今、クイーンベッドの上に服が散乱しているのである。
クイーンベッドについても、関係者、友人から早く捨てろと言われているが、普通に捨てないと思う。だって新しくシングルベッド買うのお金かかるし、捨てるのも大変だし、広いベッドで困ることないし。実用的に使っている分、思い出があるから捨てられないみたいな生ぬるい理由は残念なことにあまりもうない気がする。まあ、ロフトから見下ろして、改めてデカいベッドだなあとは思うし、その度に元婚約者と一緒に買ったベッドだという認識はずっと頭から離れないと思うけども、別に今はいい。
ただ、服については、こんなには要らないと思っているし、いつまでも思い出の染みついたままの服を着ていていいのかと思う。新しい服を買いたいわけではない(新しい人間関係を築きたいというわけではないのと同じに)ただ、このような服だけを一生着続けて、もう会えない人たちのことを思い続ける毎日でいいのか、という焦りがある。実際、もう一生会えない人もいれば、そうでない人もいるが、着るたびにその人のことを思い出す服なので、新しい気持ちになれないのである。そこそこ着る頻度が高い服についても同様で、誰からもらっただとか、鳥取にいたときから着ているだとか、五年間好きだったやつに「綺麗だね」と言われただけの服だとか、もうとにかく全て捨ててしまいたいし、忘れてしまいたい。嫌いになったからとかではなく、普通に、自分の脳の容量が重くなっていくだけだと思う。
要は写真と一緒で、過去の写真を捨てないと、新しい写真を撮っても保存されないのだ。見るもの、読むもの、着るもの、食べるもの、飲むもの、歩く道に、コンビニ、駅、曲、色、お酒、猫、花、イヤリング、芸人、アニメ、映画、ドラマ、もう全部、全部全部全部、私自身の容量がいっぱいで、カメラロールを見返すだけで、新しいものが入ってきても記録だけで、記憶はできない。この2年間に、もっと言えばあの大学生活そのものに、蹴りを付けたいのである。服さえ見なければ忘れてしまうことができるようになるのか、本当にそうなれるのかという恐怖もきっとある。今やっと集荷が来て、手元から本がなくなった。何の本を入れたのか、正直全ては思い出せない。でも服は違う。今やっとの思いで服を全て捨てられても、それでも思い出し続けてしまうことが怖い。でも、綺麗さっぱり忘れてしまうことも多分耐えられない。忘れたいのか、忘れたくないのか、捨てたいのか、捨てたくないのか。
一つ言えるのは、捨ててしまえば、もう悩まなくていいということだ。後になって、後悔するかもしれないけど、その時点は、もう捨ててしまっているので、どうすることもできない。捨てない限り、捨てるか、捨てないかという二つの選択肢からは逃れられない。きっと捨てたほうがいい、そういうときは。断捨離、をしたことはないけど、引越し自体は記憶にある限りで言えばこれで6回目になる。たくさんのものを手に入れて、手放してきたけど、その全ては潜在的には記憶されているだけで、いつもは思い出せない。そうしないと、ふだんの当たり前の生活を生きられないから。
時と場所を超えて顕在化されてしまう記憶=悪く言えばトラウマ的な昏い過去、良く言えば青春に関するノスタルジーがあまりに多すぎるので、疲れた。だから、捨てたくなった。ブログに自分の思いを書いて整理をしたので、分かってきた。多分、そういうことだ。
40インチのテレビは婚約者の母親にあげ、学生寮もとうの昔に出た。もうあの店に青いピアスのおっちゃんはいなかった。愛想笑いも上手くなり、空中で分解されて、そのままでいられると思ってた。それから婚約者と幸せになるはずだったけど、そうはならなかった。けれど、朝日は来る、服を着なければならないし、コンビニにもこの先一生行かないというわけにはいかない。早く片付けないと、友人とのディナーに間に合わない。
とりあえず、全ての服をビニール袋に入れ、取り出すという形で服を10着捨ててみよう。
一度筆を置く。
空中分解
サークルが終わった後のなんとも言えない浮遊感の正体をずっと探していた。それは自分にとってのかつての孤独への情景が、手のひらで静かに潰えていく炎のようにゆらゆらと騒ぎながらも緩やかに消えていくから。名も知らないあなたのいいねに安堵感を覚えてしまっているから。自分の所在に迷いながらも、過去の甘い思い出を美化して、肯定しようとするから。
どうすればよかったんだろう。
一人で考えている。
いつも、そこにいるはずだった彼女のことを考えている。ずっと考えることで彼女を忘れないでいたいから。
どうすればよかったんだろう。
君に怒っているのか、許してほしいと思ってるのか。言いたいことは多分もっとたくさんあるのに、今更何を言っても何にもならないことだけわかってしまっている。
こんなに複雑な気持ちになったことはなかった。
何が正しいのか、自分一人で生きていた私であればいつも明白にわかっていたから。だから、この四年間は迷った。失敗した。後悔した。まるで人間みたいに生きていた。
愛想笑いと集合写真
人は社会的な生き物だから、人と良好な関係を築くために愛想笑いをすることがある。これは私たちが叶わないと分かっていても滑稽なまでに献身的で純真な片想いをしてしまうのを同じくらいにどうしようもなく仕方ないことだし、それ自体は責められることではない。それに、誰だってきっと誰かに愛想笑いをすると同時に、そのしょうもない自虐ネタやどうでもいい自慢話で他人に愛想笑いをさせている。そして、その愛想笑いに自我を支えられながらも、勘のいい時なんかはそれに気付いて傷付いて生きていく。そんな誰も等しく幸せになれない平等な雰囲気をみんなで作って、貴重な体力と有限の精神力を削り合いながら、最後はバラバラの電車に揺られて家路に着く。だから、この、ひょっとしたらポリス的動物である人間の原罪とも言えるような愛想笑いゲームに加担しなくてもいいのは、赤ちゃんとホームレスくらいなのかもしれない。罪も曇りもないその感性をきちんと持ち得ているホームレスに敬意を表し、自分は先日、池袋駅西口で眠る彼の枕元にポカリスエットを買って置いた。受け取ってもらえたのかは知らない。
ヘラヘラと性懲りもなく、できるだけ馬鹿っぽく笑うのが愛想笑いを長く続けるためのポイントだ。だって、さほど面白くもないことを無理やり笑おうとするのは、自分の自分だけの感性を大切に扱わないことで、自分の品位を自ら下げてしまうかなり愚かなことなのだから。もちろん、愛想笑いは生きていくには必要だけど、愛想笑いをするために生きるなんてまっぴらだ。だから、愛想笑いする時はペラッペラの離婚届みたいにヘラヘラしておくことが大事だ。「いやー、それがこの前浮気されちゃってね。結婚してまだ一年も経ってないのに参りましたよ〜。アハハハハ」みたいな感じで。そうして、本当は泣き出したいくらいに悲しい気持ちを自分のうちに隠しておく。まあ、この笑いは愛想笑いではないけれど、心構えとしてはこんな感じのイメージが理想だ。か弱い自尊心やなけなしの美意識ができるだけ汚れないように、そうっと心を奥にしまう。忘れられない夕焼けや散歩の途中で見た川の煌めき、息が止まるくらいに綺麗な花、あの日君がくれた言葉、そういった自分だけの大切な記憶や思い出なんかで心を大事に包んでおく。そうして、今、テーブルの上にある灰皿の横に置く心の形をした入れ物はできるだけ空っぽにしておくのだ。空にしていれば、下らないジョークも何にもならない世間話もそこにいっぱい詰め込める。ぎゅうぎゅうと詰め込むたびに乾いた笑い声だけを生産し続けるマシーンになる。できるだけ、高めのハリのある声で、何も考えずに愛想笑いをする。
それでも、段々笑えなくなってきたら、ふと我に返ってしまいそうになったら、少しも興味のないことにこうして嬉々として笑っている自分を嘲笑ってみるといい。それか、この世で一番意味のない数を数えるのもオススメだ。「えー、そうなんですか〜。すごいです〜」と手を叩いて言った回数を、自分の大切な感性を自分で鈍らせていく回数を心の中で数えてみるのはたまらなく痛快だと思う。そこまで被虐的になりきってしまえば、もう全てのことがどうでもよくなってくる。けれど、どうしたってこの会食はあと2時間終わらないし、この人たちのとの関係もそう簡単には終わりそうもない。だから、たまらなくバカっぽい自分を、道化師になって社会を生きている自分を、ここぞとばかりに笑ってみる。そうやって笑う自分だけは、せめてこのピエロの観客でいてあげる。無観客試合だなんて、寂しいから。そして、最後、心の抜け柄が空虚さと疲労でパンパンになったら、ちゃんと口を縛って駅のゴミ箱に捨てて帰る。おかえり、自分。ただいま、お家。
そういえば、昔、男の先生に「君は愛嬌がない」と言われた。
てめえに売る愛嬌なんかねえよ、と言い返せなかった自分は、よりにもよってその場を笑ってごまかした。2年前は随分と悔しかった気もするが、それすらどうでもいいと思えている自分が大人になってしまったのが悲しい。たまらなく、悲しい。
「はい、チーズ」と今まで、いろんな人に笑うことを暗に強制されてきた。
思い出の形は笑顔だけで表現されるべきじゃない、と思いながら未だにいつも薄ら笑みを浮かべている。たまにそれに失敗して「顔が怖いよ」と言われるから、頑張って笑おうとする。本当はちょっとも面白くないし、君たちと笑えるような思い出なんか一つも作ってないのに。
笑顔で写真を撮らなくてもいい。笑顔だけが幸せの象徴になるわけじゃない。
だって、あなたの顔が美しいのは、何も笑顔に限ったことじゃないでしょう。
人の顔が美しいのは、その人がその人だけのその体と心で、その感情を、思い出を、生い立ちを、関係性を、社会性を、どうしようもない今を生きているからだと思う。まあ、その意味で言えば、頑張って愛想笑いしているあなたのその釣り上がった目尻も自分はやはり美しいと言わざるを得ないね。本当は、そんな下品なことをあなたにさせたくなんかなかったのに、ごめんね。
でも、僕には、あなたの真剣な怖い顔も、何かを見てる顔も、眠そうな顔も、横を向いてる顔も、考え事をしている顔も、全てが素敵に見える。刻々と変わりゆくそのみずみずしい表情の全てを、私は愛おしく思っている。出会ったこともないあなたの顔も名前も知らないけど、そう思ってる。
だから、自分があなたにカメラを向けても、どうか無理に笑わないでください。もし、笑いたかったら笑ってください。もし、泣きたかったら、泣いてください。すっぴんだって、綺麗だから大丈夫だって。いや、髭を剃り忘れてたって君はイケメンだよ。ほら、いくよ。
はい、チーズ
部屋の片付け
さて、そんな自分は現在7畳の部屋に住んでいて、そこには元からトイレと洗面台とベッド、机や棚が付いている。そして今、地元から送ってた中くらいの段ボールが4つ、一緒に空の旅をした銀のスーツケースが1つが床に中途半端に開封されたままになっている。7畳という広さにピンとくる人ならもうお分かりだろうが、この部屋の広さにこれだけのものがあるということは、つまり部屋がとても散らかっているということである。人に見せられないレベルで、と書くと人によってそのレベルは変わるだろうからあまり的確な説明にはならないだろう。まあ、ブログを書くような人であるから、自己開示度のハードルは一般の人よりも低いのかもしれない。それでも、何をどう自己開示するかは自分で決めているつもりではあるけれど。いや、今日はそんなことをごちゃごちゃと抜かしている場合ではない。今日は、今からこれらを全て片付けていきたいと思う。なんだかYouTuberみたいな喋り方(書き方)だなあと思うが、それは先ほどまで自分がYouTubeを見ていたからだということにしたい。
片付けをする時に自分がいつも思い出すのは、父が昔、片付けの難易度とはその散らかっているものの種類の多さによると言っていたことだ。積み木だけが散らばっている部屋は片付けやすいが、そこにぬいぐるみと毛糸玉と絵本と折り紙が混ざると大変だということである。まずはそれらの分類をしてから、収納をしなければならないからだ。潰れかけのこの段ボールの中身は大量の本と間に挟まったヘロヘロの服だけであるし、スーツケースにはこれまた大量の本と各方面へのお土産がまばらに載っている。だから、片付ける物の種類としてはそこまでないと、片付けるのはそこまで苦ではないと思っているが、片付けが楽勝だったことは人生で一度たりともない。昔、寮の決まりを破ってこの部屋に連れ込んだヤツが言っていたのは「まず君の持っているものがね、収納スペースよりも多いから部屋が片付かない、というかすぐ散らかっちゃうんだよ」という至極当たり前のことであり、そして自分の部屋が片付けにくい一番の理由であった。実家でぬくぬくと暮らしてるヤツにそれを言い当てられたのは少し癪ではあるが、元彼という称号に免じて許してやる。父が言うように持ち物の種類が少なくても、如何せん7畳の部屋にこの量のものを片付けるのは彼が言うように難しいので、気が重いしやる気も出ない。だから、自分で収納スペースを増やした上で、どこに何をしまっていけば、部屋が片付けられるかを考えて物を詰め込んでいかないといけない。とても面倒くさい、そして疲れると思う。
本当に今日中に終わるだろうか。いや、終わらせられるだろうか。ブログを書いていたら、もう3時間も経ってしまったし、なんだかお腹も空いてきたような気がする。でも、今年の1月にとうとうメンタルがやられてから4ヶ月弱ずっと部屋が汚かったのはとても辛かったし、毎日それで何をするにもやる気が出なかったことも覚えている。最終的に、自分の部屋は三原順の『はみだしっ子』にあった「整理整とん教室」のサーニンみたいな感じになったのだが、(めちゃくちゃ散らかってはいるけど、どこに何があるかは自分で大体把握できている状態。サーニンはそこで「オレ、もう片付けなくていいような気がする」みたいなことを言っていた)もうあんなことには金輪際なりたくない。だから、鼻を噛みながらでも、部屋は今日明日あたりで片付けておいたほうがいいだろう。
前回、4月はあんなに散らかった部屋を一気に片付けようとした結果、疲労がピークに達したのか途中で正常な判断力を失ってしまい、深夜に火事場の馬鹿力を発揮して、高さが2mくらいあるまあまあ普通のデカい棚を一人で運んでしまった。ここまではまだ馬鹿力エピソードで済む話なのだが、その勢いで何を思ったか「自分にできないことはない」と盛大な勘違いをしてしまい、40インチ相当のテレビ(弟よりも重かったので60kgくらいはあったと思う)を一人で運ぼうとしたところ、無事失敗し何故か朝方ベッドの上でテレビの下敷きになってしまったのだ。だから、今回は気持ちにゆとりを持って計画的に片付けを終わらせられるように祈っているが、こんなことは先ほどのおっちゃんの話とは違って祈ったところで何にもならないだろう。というか、祈る前にすべきことはまず、この暖かいベッドを降りることだろう。早急に。
青のピアスのおっちゃん
先日、あの実家からやっと東京に帰ってくることができた。その間にあった諸々の出来事はここでは書かない(書くと何人かに吐いている嘘がバレてしまうので)し、両親が実家でまた喧嘩をしていることなど、もはや東京に帰ってきた私には何の関係もないことだ。そんなことよりも今の自分にとって大事なのは、一番よく利用しているスーパーのレジのおっちゃんにまだ会えていないことである。もし、自分が東京にいなかった4ヶ月の間に彼が辞めていたのだとしたら、相当なショックを受けるだろう。それに、今後あのスーパーに行くたびに「もう、あの青のピアスのイカしたおっちゃんに会えないのだ」と思うとなると、今からすでに辛くなってしまっている。こんなことを思うのは、自分がそのおっちゃんに一方的な想いをストーカーのように寄せているからではない。寮生御用達のこのスーパーに買い物に来た時、青のピアスを「素敵ですね」と自分が褒めたところから、レジで会えば互いに話すくらいの仲にはなっている。よく夕方〜夜にシフトを入れているスキンヘッドのおっちゃんは独り身なのか、余程暇なのかは知らないが、年齢は50代後半だろうと見ている。しかし、昔はバイクにでも乗っていたのだろうと想像させるような少し日焼け気味のヤンチャな顔と快活な喋り口調から、俗にイメージされる50代にしては随分と若いと思っていた。(とは言え、彼の本当の年齢は知らないのでなんとも言えないのだが)他の従業員さんやいろんなお客さんと気さくに喋るその人柄に自分は勝手に好感を抱いているのだが、それ以上にそのおっちゃんに見出していたのは、世界の安定であった。
世界の安定、それは現象学によれば「過去こうだった、今日はこうである、だから未来もこうだろう」という連続性によって作られるものであり、私たちがそれぞれに持ち、そしてある程度は他者と相互的に共有している普遍的な基盤(普段当たり前に生きている世界を構成してくれる地盤)のことを指す。例えば、何故、自分が西武池袋線ユーザーとして通学することが可能になっているかと言えば「過去電車が使えた」という事実があり、そして普通に「今日も使えた」ので、「明日もきっと使えるだろう」と予想するからである。そして、それが多くの他者と共有された世界に生きているから、安心して過ごせているのである。そうじゃなければ毎朝毎朝「今日は学校に行けるのだろうか」と不安になってしまうし、そんな不安定な世界では安心して生きられない。だから、比喩的な意味でもそうでなくても内戦地区のような場所に生きる人は「昨日は大丈夫だったが、今日は爆弾が落ちてくるかもしれない」「今日は親にぶたれなかったが、明日はどうなるか分からない」という不安が当たり前となって積み重なることで、それが彼・彼女らにとっての普遍的な基盤となってしまうのである。
変化が激しく、人の移動速度が異常に早い(連続性がなく、特定の他者と世界を共有しにくい)東京に来て、自分は長い間住んでいるところに対する愛着や、安心を持てず、普遍的な基盤を築くことができないでいた。しかし、そのおっちゃんは「そこに行けば、大抵いつも会える」だから「過去会えた、今日会えた、だから明日も会えるだろう」という世界の変わらなさ、安定さを2年半に渡って体現してくださる身近で、相互的なやりとりができる他者として、自分にとてつもない安心とレシートをこの手のひらにずっとくれていた。自分が卒業して、退寮する時には何か一言そのおっちゃんにお礼でも言おうと考えているくらいである。(多分「あ〜、そうですか〜。それはよかったですね〜w」と笑われながらも、若干引かれるだろう)
こういうことを書くと自分はすごくウェットで女々しい感性を持っていると改めて思うし、見知った顔に定期的に会えることに安心するあたりやっぱり田舎者なのだと思う。まあ、でも大なり小なりみんなそういうのはあるかもしれないから今日は少し書いてみた。明日の夜にはまた買い物に行こうと思っているので、レジで会えることを祈っている。まあ、それで会えなかったらそれまでなのだろう。寂しいけれど。スーパーに通って2年半になるが、未だにお互いの名前も知らないし、今後知ることもない。そして、こっちにとって彼はブログに書くほどの人ではあるが、向こうにとっては数多いるお客の一人であることは間違いないし、別にそれでいい。恋愛や友情に限らず、全ての人との関係なんて全部が全部片想いなのだから。例え双方向であっても、二人がそれぞれに互いに片想いしてるだけだろうし、それすらもスクランブル交差点ではごちゃ混ぜになってしまう。ああ、もはや安心さえ覚えるこの寂しさ、これが東京、いや、移り行く世の中というものなのだろう。断じて、こんなことでセンチメンタルになったりはしないし、このままおめおめと11月に負けるわけにもいかない。
忌まわしき10月へ ②
そうして今年の10月が終わった。終わってみれば何のことはない。多少ツイキャスで喚いたり、夕方が辛かったりしたくらいはあったけど、例年に比べればとても平和だった。パクスロマーナならぬ、パクスオクトーバーだった。特筆すべき出来事と言っても大したことはなく、宗教に狂った集団とお友達になったり、バカバカしい喧嘩を繰り返し離婚だと喚き散らかす両親の仲裁をしたり、しつこめの鼻風邪を一週間近く引きずってしまったりしたことくらいだ。自分にとって大切な何かが突然失われるでもなく、自分の尊厳や気持ちを徹底的に踏みにじられるでもなく、ただ騒がしい10月が風のように過ぎていっただけ。あれだ、絵本の『葉っぱのフレディ』みたいだった。
これは強烈というか、児童向けにしては何とも重々しい絵本なのであるが、そう言っている自分が多感な時期(とは言えこの時は確か小3だったから、多感というよりは、ただ単に感じたことが全部ナイフみたいにブッ刺さって死ぬまで抜けない時期)にこれを読んだから、そう思ってるだけなのかもしれない。内容としては主人公が葉っぱで、春はみんなで一生懸命大きくなって、夏はみんなと木陰を作ってワサワサ楽しかったのに、秋にはみんな散って悲しいね、僕も死ぬのかな、死ぬのは嫌だな、そう思いながら冬を迎えて、、、というものである。軽い口調で要約を書いてしまってめちゃくちゃ作者に申し訳ないけど、読書感想文だか何だかをこれで書いたくらい自分にとっては惹かれる本だったし、死を扱っている分、怖いながらも美しい本だった。でも、今年の10月は紅葉した葉っぱが落ちるのを見て「フレディイイイイイイイイー」とは、まあちょっと思ったけど、別にそれで泣いたり、外に出たくなくなったり、誰かと致命的に関係が悪くなったりもしなかった。これで、今年こそは10月を乗り越えたと言えるだろう。
だが、恐ろしいのはここからである。10月は乗り越えた、がしかし、喜ぶのはまだ早い。本当の勝負はここから始まる。何なら、去年だって10月はそこそこうまくやれた。しかし、自分にとって去年の本当の敵は11月だったのである。10月は何をやっても10月のせいにできたが、11月になるとそんなふざけた言い訳もできず、10月の遅れを取り返そうとただただ頑張った結果その反動がきた。正確にいうと身内の不幸と恋愛に関する諸々の事情によりダウンした。まあ、出来事もヘビーだったし、恋愛のこともタイミング的にしょうがなかったとも言えるけど、体感としては10月の分のしわ寄せが一気に11月にきた感じだったので、これでは10月を乗り越えたとは言えないだろう。よって、自分が今年の10月を乗り越えたと言えるかどうかはは11月を持って証明されるのである。まあ、証明してみせたところでそれが何になるとも思えないけれど。でも、これは自分にとってはフェルマーの最終定理の証明よりも難しいし、少なくともコンスタントに活動し続けなければいけなくなる社会人になるにあたって、やる意味のある証明だと思っている。
忌まわしい10月よ、君は自ら望んで31日もあるのではないのだろうし、こんなに感傷的で厭世的な演出をあの手この手を使って自分に仕掛けにきているわけでもないのだろう。しかし、望んでいないにもかかわらず人は憎まれ、憎むのがこの世の不条理というものだ。だから、一生かけても君を好きになることのない自分を甘んじて受け入れてくれとは言わないが、せめて毎年穏便にそっとやって来て、何も言わずにさっさと立ち去ってほしい。君は君でもう十分すぎるくらい魅力的なんだろうけど、自分にとってその魅力はバラについてるトゲのように鋭すぎて触れられないんだ。だから、君とは最高にスマートで寂しい別れだけを繰り返したい。
あ、でも待って、ちょっと最後にこれだけ言わせて。君のことウィキペディアで調べたら、神無月になった訳って実ははっきりしてなくて、出雲大社が広めた話だったんだね。まじで何なん。