忌まわしき10月へ ②

 そうして今年の10月が終わった。終わってみれば何のことはない。多少ツイキャスで喚いたり、夕方が辛かったりしたくらいはあったけど、例年に比べればとても平和だった。パクスロマーナならぬ、パクスオクトーバーだった。特筆すべき出来事と言っても大したことはなく、宗教に狂った集団とお友達になったり、バカバカしい喧嘩を繰り返し離婚だと喚き散らかす両親の仲裁をしたり、しつこめの鼻風邪を一週間近く引きずってしまったりしたことくらいだ。自分にとって大切な何かが突然失われるでもなく、自分の尊厳や気持ちを徹底的に踏みにじられるでもなく、ただ騒がしい10月が風のように過ぎていっただけ。あれだ、絵本の『葉っぱのフレディ』みたいだった。

 これは強烈というか、児童向けにしては何とも重々しい絵本なのであるが、そう言っている自分が多感な時期(とは言えこの時は確か小3だったから、多感というよりは、ただ単に感じたことが全部ナイフみたいにブッ刺さって死ぬまで抜けない時期)にこれを読んだから、そう思ってるだけなのかもしれない。内容としては主人公が葉っぱで、春はみんなで一生懸命大きくなって、夏はみんなと木陰を作ってワサワサ楽しかったのに、秋にはみんな散って悲しいね、僕も死ぬのかな、死ぬのは嫌だな、そう思いながら冬を迎えて、、、というものである。軽い口調で要約を書いてしまってめちゃくちゃ作者に申し訳ないけど、読書感想文だか何だかをこれで書いたくらい自分にとっては惹かれる本だったし、死を扱っている分、怖いながらも美しい本だった。でも、今年の10月は紅葉した葉っぱが落ちるのを見て「フレディイイイイイイイイー」とは、まあちょっと思ったけど、別にそれで泣いたり、外に出たくなくなったり、誰かと致命的に関係が悪くなったりもしなかった。これで、今年こそは10月を乗り越えたと言えるだろう。

 だが、恐ろしいのはここからである。10月は乗り越えた、がしかし、喜ぶのはまだ早い。本当の勝負はここから始まる。何なら、去年だって10月はそこそこうまくやれた。しかし、自分にとって去年の本当の敵は11月だったのである。10月は何をやっても10月のせいにできたが、11月になるとそんなふざけた言い訳もできず、10月の遅れを取り返そうとただただ頑張った結果その反動がきた。正確にいうと身内の不幸と恋愛に関する諸々の事情によりダウンした。まあ、出来事もヘビーだったし、恋愛のこともタイミング的にしょうがなかったとも言えるけど、体感としては10月の分のしわ寄せが一気に11月にきた感じだったので、これでは10月を乗り越えたとは言えないだろう。よって、自分が今年の10月を乗り越えたと言えるかどうかはは11月を持って証明されるのである。まあ、証明してみせたところでそれが何になるとも思えないけれど。でも、これは自分にとってはフェルマーの最終定理の証明よりも難しいし、少なくともコンスタントに活動し続けなければいけなくなる社会人になるにあたって、やる意味のある証明だと思っている。

 忌まわしい10月よ、君は自ら望んで31日もあるのではないのだろうし、こんなに感傷的で厭世的な演出をあの手この手を使って自分に仕掛けにきているわけでもないのだろう。しかし、望んでいないにもかかわらず人は憎まれ、憎むのがこの世の不条理というものだ。だから、一生かけても君を好きになることのない自分を甘んじて受け入れてくれとは言わないが、せめて毎年穏便にそっとやって来て、何も言わずにさっさと立ち去ってほしい。君は君でもう十分すぎるくらい魅力的なんだろうけど、自分にとってその魅力はバラについてるトゲのように鋭すぎて触れられないんだ。だから、君とは最高にスマートで寂しい別れだけを繰り返したい。

 

 あ、でも待って、ちょっと最後にこれだけ言わせて。君のことウィキペディアで調べたら、神無月になった訳って実ははっきりしてなくて、出雲大社が広めた話だったんだね。まじで何なん。