自由意志と空の緑

 ツイッターで仲良くしてくださっている、あるフォロワーさんがたまにブログを書いてる。全て読んでいるわけではないが、彼女のきめ細かくてそして少し自信がなくて、それでいて素直な文章に自分は右斜め上に少し惹かれている。それに感化されてブログを始めたと言ったら、気持ち悪いと思われるだろうか。出会ったことのない彼女の黄色いタンポポが高架下に吹く風に揺れているのを、ここにつらつらと書き留めるのは野暮だろうからここいらで口を閉じる。元彼がブログを書いていたからそれに倣って始めたことにしてみようかとも思うけど、正直彼のブログにも生き方にも羨望の念やある意味の畏敬の念抱いたことはあれ、憧れたことはないのでそうすると嘘をつくことになってしまう。

 では、どういう建前でブログを始めようか。いや、そもそもブログを始めるのに理由がいるのだろうか。何事にも始めるときには理由がいる。そこに私たちは意志を見出し、そこに漬け込んで何かしら責任を負わせようとする。あなたが自ら望んで始めたことは、何かしらの目的を達成するためにあなたのたゆみなき努力を持って続けられるべきであり、簡単に終わらせるべきではく、続けられないことや途中で投げ出すことは無責任である、そう言われる。その息苦しさや自由意志の有無について、または責任と依存症について國分功一郎の『中動態の世界』を引いて、ある程度(不十分ではあれ)語ることはできるけどその需要はあるのだろうか。書くことの責任を自分は負えるだろうか。

 そもそも、ブログというものはある世間の持つ需要に対する一種の個人的な供給なり得るだろうか。いや、たぶん、自由に書くということはそんな大層なものでも、陳腐なものでもない。その間にある気ままさとちょっとの苦しさは、空の中に在る緑に似ている。終わりゆく今日という日の黄と空の地の色の青とが溶け合う場所は緑になっていて、でも、誰もそんなこと気づかないで池袋で降りているみたいだし、どの画家も夕暮れの手前の空を描くときに緑を使わない。そして、意識しなければその緑は簡単に見落とされるし、いざ見ようと思っても誰もが見られるものでもない。別に、トトロのように子供には見えるのだとか、自分は神に選ばれた人間だから見えるだとか、そういうことを言いたいのではない。ただ、空は青で夕焼けは赤(またはオレンジ)だと信じて疑わない人や、「溶け合う」(という表現ですらしっくり来ていないくらいに黄色と青色と言う対象はもうそこで消失してしまっている)二色がそれぞれの領域を惜しみなく広げた結果、不意に触れてしまった結果できてしまったその緑色の中途半端さが許せない人は、その緑が見れないのだと自分は思う。男と女に、加害者と被害者に、先生と生徒に、好きと嫌いに、生と死に、全てを二分した世界で満足に生きているだけではきっとダメなんだろうと、思う。だから、もしまた自分が絵を描くことがあれば、そしてそのとき空を書くのであれば、必ず緑を使ってやると決めている。それもとびきり透明で曖昧でぼやけた緑を、表現する。表現されていることにすら通行人は気づかない形で自分はそれをするけど、別にそれでいい。あなたが気づいてくれれば、それでいい。

 とまあ、ここまではっきりと空の緑について語っているが、この話はここが初出ではなく、別の創作サイトでもしている。少しだけ。でも、誰がそれを見て、自分と同一人物だと思うだろう?一緒の人物だと思われたいわけではないけども、盗作だなんて言われたら心外だから一応言っておく。と言うか、僕らみんな両親の盗作だよ。罪はないけど。

 BGMに聞いているオンデマンドの動画が気づいたら終わっていた。今日はこれくらいにする。